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奨励集

奨励集

そもそも奨励とはなんでしょう?

チャペルで語られるお話のことを「奨励(メッセージ)」といいます。
これは、聖書のことばを判りやすく、現代に生きる私たちが理解しやすいように解説したり、あるいは語り手の体験を聖書の教えに基づいて述べることです。

取り扱われるジャンルは多岐に亘り、文学、芸術、歴史、政治、思想、福祉、ボランティア、宗教、心の問題など。

キリスト教会での礼拝で語られる説教と同じように思われますが、大学のチャペルアワーの奨励は学問の場という自由な場を活かして、大胆に、深く、既存の価値観に捉われずにさまざまな視点や体験に基づいたお話になります。
そのような奨励を聴くことで視野が広がり、新しい価値観を発見したり、人生の本質や世界の置かれている状況を考えたりして、自分自身の考え方を再構築する貴重な機会が得られます。

奨励集は2012年度に白金・横浜のチャペルアワーで語られた中から選りすぐったものですが、これらのメッセージが皆さんの心に残るように願っています。

ここは退屈迎えに来て

坂口 緑(社会学部准教授)※2012年度時点での学年・肩書きで掲載しています。
2012年10月18日 於)白金チャペル

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。
ただ、父だけがご存じである。
【新約聖書 マタイによる福音書 24章36~44節】

「ブックオフ、ハードオフ、モードオフ、TSUTAYA、東京靴流通センター、洋服の青山、紳士服はるやま、ユニクロ、しまむら、西松屋、スタジオアリス、ゲオ、ダイソー、ニトリ、コメリ、コジマ、ココス、ガスト、ビッグボーイ、ドン・キホーテ、マクドナルド、スターバックス、マックスバリュ、パチンコ屋、スーパー銭湯、アピタ、そしてジャスコ」。これは、山内マリコの描く地方小説『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎・2012年)の舞台である。こんなダレた空気の漂う田舎に私をわかってくれる人なんかいないと、主人公は東京に出る。けれども自分程度の文化系女子なんて都会には100人単位でいることがわかり落胆する。大学を出ても仕事がなく、とりあえずバイト。これではまずいと25歳になって編集プロダクションにもぐりこみ、30歳になって地元に戻ってきた。「東京にいた頃の微妙な知人を中心にフォロー」しているから、「タイムラインに流れてくるのはどれもこれも東京の話ばかり」。そんなスマホを片手に軽自動車に乗って巨大店舗が建ち並ぶすいた国道をあっという間に通り過ぎながら、仕事のない時間をどんなふうに過ごしたらいいのかわからない。
車を持っていなかった10代の頃、バイト先に迎えに来てくれるのは、好きでもない男の子だけだった。お礼にファミレスでの食事につきあっているうちに、その先のことにもつきあわなくてはならなくなって気が滅入る。雑誌でにわかに仕入れたどうでもいい音楽豆知識を、ふんふんと聞いてやる。といって他の誰かが迎えに来てくれるわけではない。だから、ある日、主人公は決心をする。免許をとろう、と。そしてお金をためて中古車を買おう、と。彼女は自分の決心に舞い上がる。人生がうまくいかないのは、そうか、車を持っていなかったから。退屈なのはそうだ、自立していなかったから、車を持っていなかったから。
まるで世紀の発見であるかのように喜びをもって語られるこの「君がどこにも行けないのは車持っていないから」という結論は、当然ながらたいした意味をもたない。田舎で運転できるようになるのはやっと人になるという意味であって、自由になるという意味でも、ましてや自立するという意味でもない。車があっても退屈は立ち去らない。どこにも行きたくない夜なのに車に乗り、「選曲もいまひとつで沸点の低い笑い」しか提供してくれない地元のFMに耳を傾ける。親が年老いてくる。昔の友達が結婚しているというだけで上から目線で説教をしてくる。18歳で手に入れたはずの自由も自立も、30歳の彼女を重たく取り囲む。
マタイによる福音書第24章第36節。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」。人の子がいつこの世界に遣わされるのか、私たちにはよくわからない。けれども人には与えられた役割があって、それは神の計画の一部であってあらかじめ決まっている。聖書にはそのような話が何度も登場する。聖書が語る世界では、どんな人生が与えられても、それが平板になるということはない。人生の意味は、あれこれと人が思い悩む前に、命とともにすでに与えられている。たしかに若い頃は、そんなふうには思えなかった。けれども今、もし、ダレた空気の風景にあって、ふてくされている若い人がいたら、そんなことであなたの人生が退屈になるわけではないと話してあげたいと思う。人生の意味はすでに与えられていると。信じて待つ。若さがそれを少し難しくしているだけなんだ、と。

命の水

吉田 真依子(心理学部心理学科1年)※2012年度時点での学年・肩書きで掲載しています。
2012年11月12日 於)横浜チャペル

「しかし、わたしが与える水を飲むものは決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
【ヨハネによる福音書 4章13・14節】

 私は2012年の5月に洗礼を受けたクリスチャンです。なぜキリストを信じるに至ったのか、それをお伝えしたいと思います。
 あなたは、無気力におそわれたことがありますか。勉強も趣味も、友達と話すことさえ空しい。心の底から乾ききったような状態になったことはありませんか。
私は高校時代、そんな無気力に悩まされていました。原因は、自分を繕い過ぎたことです。すべての人に好かれたいと、作り笑いをし、明るく振る舞い、一生懸命演技をしました。そうしなければ、誰も私を受け入れてくれない。幸せにはなれないと思い込んでいたのです。
 そんな時、三浦綾子さんの『光あるうちに』という本に出会い、教会へ行き始めました。通い始めたものの、相変わらず虚無感は私を支配しており、教会の方が相談に乗ってくれるようになりました。その方は礼拝のあと、私のために泣きながら祈って下さり、今日の聖書の箇所を教えてくださいました。他人のために本気で泣くことは、簡単なことではありません。この人が信じる神様を、私も信じたい。そう感じ、私も泣きながら、心から祈りました。この空虚で無気力な生活から、助けて下さいと。
 神様は、この祈りに答えてくださいました。その3日後に、hi-b.a.という高校生のクリスチャンが集まる集会のキャンプに参加したのですが、そのキャンプの礼拝で、メッセージがありました。
 「人の心は辛いことが重なるほど麻痺し、ついには何も感じなくなり虚無しかなくなる。追いはぎに会った人は傷つき過ぎて痛みさえ何も感じていなかっただろう」という、善きサマリア人の箇所からの内容でした。まるで、私のために用意されたかのようなメッセージに思えました。
 その時、声が聞こえたような気がしました。
「あなたが何も感じず、虚無感しかないのは、辛く悲しいことがたくさんあったから。もう、我慢しなくていいよ。」
 その瞬間から、私は涙が止まりませんでした。心の底からの涙が、麻痺していた気持ちが溢れ出てくるようでした。神様は本当にいるのだ、本当に私を見捨てないのだ。心の底から、そう思えました。
 何も感じず、麻痺していた私の心に、神様はその言葉を、命の水としてくださいました。もしイエス様の救いと、周りの方々のお祈りがなければ、私はあの虚無の日々の中で、窒息していたことでしょう。これからは自分を偽らず、神様がつくってくださったままの自分で、生活していきたいと思います。

主、共にいます喜び

大野 寿子(メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン事務局長)
2012年10月10日 於)横浜チャペル

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
【新約聖書 マタイによる福音書 1章23節】

子どもの頃の夢を覚えていますか? 幼稚園の頃、小学校の頃……いろいろな夢があったと思います。病気の子どもも一緒です。「あれやりたい、○○に行きたい、こんな仕事をしてみたい」と思い描いても、「病気が治って元気になったらね」という言葉の前に、 「どうせ病気が治らなきゃ何にも出来ない」、と夢を見ることをあきらめてしまいます。そんな子ども達一人ひとりの夢をかなえるお手伝いをするのがメイク・ア・ウィッシュ(MAW)の活動です。
 MAWは1980年、アメリカで生まれました。7歳のクリスの「おまわりさんになりたい」夢に、本気で向かう大人の人たちがいました。クリスの夢がかなった時、その笑顔に出会った人たちも、大きな喜びを経験したのです。そうして、今では世界38ヶ国、夢をかなえた子どもの数は27万人を超える世界的なボランティア団体になりました。メイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパン(MAWJ)は1992年に設立され、1950近い夢のお手伝いをしてきました。
 竹畠くんの話をします。「ぼくの夢をかなえて下さい。ぼくは骨肉腫と言う病気になり、大好きだったテニスが出来なくなりました。でも、車いすテニスという競技があることを知りました。ぼくは車いすテニスで世界に羽ばたきたい」。MAWJから競技用の車いすをプレゼントされた竹畠くんは、すでに肺への転移を告知されていましたが、果敢に世界を広げます。高校の卒業検定試験を受け、この競技で世界一の座にある国枝選手のいる千葉へ単身テニス留学、さらに大学入学、大型バイクや車の免許を取ります。竹畠くんは言います。「MAWJと出会ったことは、単に車椅子をもらったということではなく、大きなチャンスをもらったということ、たくさんの人が応援してくれていることを知ったということ。」これからもそんな活動になりたいと思っています。
 私は18年この活動に携わる中で、子ども達から多くのことを学んできました。それは、「夢の力のすごさ」「手をつなぐという生き方」です。
 愛ちゃんの話をします。小学4年生の愛ちゃんは、アフリカの子どもは貧しくて勉強することも大変だということを知り、「アフリカの子どもに鉛筆を送りたい」夢を申し込みました。MAWが夢のお手伝いをするのは、一生に一度だけです。そのたった一度のチャンスを、愛ちゃんは自分のためではなく、アフリカの子どものために使ったのです。愛ちゃんは、ご近所の方々に呼び掛け、800本以上の鉛筆を集めます。青年海外協力隊の方にお願いをして、それを、アフリカ・モザンビークの小学校に届けました。その様子を映したDVDとお礼の手紙が愛ちゃんのもとに届けられました。愛ちゃんは「喜んでくれてうれしい」と言った後、両手で顔を覆って泣き始めました。愛ちゃんのやさしい気持ちが、遠い地球の裏側のアフリカの子ども達の笑顔を生み、何倍もの大きな喜びとなって戻ってきたのです。私たちは、こうして、会ったこともない、おそらくこれから先会うこともない人とさえも、つながっていけるのです。
 2011年の東日本大震災の時、愛する家族を、友を、家を、仕事を、故郷を失い、人はどうやって立ち上がっていくのだろうかと思いました。
 本当につらい時、人は自分だけのためには立ち上がれない。でも誰かのためになら、立ち上がることが出来るかもしれない。家族のため、友だちのため、故郷のため……、そして私のことを祈ってくれている人のため。
 神様は、いつも、私たちと手をつないでいて下さる。私が、手を振りほどいて横を向いているときは、しっかりと抱き抱えていて下さる。そのことを思う時、私たちは、つらい中からも立ち上がる「希望」という言葉を心に刻む事が出来るのだと思います。

人生と勇気

飯田 浩司(法科大学院法務職研究科教授)
2012年9月24日 於)白金チャペル

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。
【旧約聖書 ヨシュア記 1章9節】

 我々の人生には、幾度となく勇気が求められるときがあります。新しいことを始めたり、仕事を変わるときなどもそうです。
 私自身は、勇気があるかと聞かれると決してそうではありません。私の社会人としてのスタートは、公務員でした。当時の私はまだいろいろなことに興味があり、就職したときも、いつか仕事を変える日が来るだろうという風に考えていました。しかし、数年勤めるうちに居心地が良くなり、何度か転職の機会がありながらそれを活かせませんでした。新しいことを始めて、もし失敗したらどうしようという不安をなかなか払しょくできなかったのです。
 しかし、最終的には役所を辞め、アメリカの法科大学院に留学し、アメリカの法曹資格を取り、国際法務の仕事に着くことを目指すことにしました。もっとも、これは、勇気を持ってなした行動というよりも、役所での自分に限界を感じ、消去法的に退職を選んだというのが正直なところです。
 留学中いろいろと苦労はありましたが、何とか予定どおり法科大学院を修了することができました。しかし、勝負はそれからです。アメリカの司法試験に合格しなければいけません。受験勉強を始めるものの、同時に「もし落ちたらどうしよう」「安定した職に就けるだろうか」という不安が付きまといます。そんな焦る気持ちを抑えるために、直前も試験会場に向かう長距離電車の中や、宿泊先のホテルでも食事の時間も惜しんで勉強し続けました。試験はいよいよ明日と明後日。何としても合格しなければいけない。そして床に着いたのですが、寝ようとしても、試験のことが気になって寝られません。結局その日は一睡もできませんでした。
 一睡もしない状態での試験は苦しい闘いです。普段のような問題への集中力が発揮できませんでした。初日の夜、今晩こそはと早めに床に就きましたが、これがどうしたことかやはり寝付けないのです。寝なければいけないと焦れば焦る程、寝付けないのです。結局、昨日同様一睡もできない状態で二日目の試験を受けることになってしまいました。こんな状態では、試験を乗り切れるはずがありません。結果は、予想通りの不合格でした。
次回の試験に向けて気持ちを切り替えなければいけないのですが、留学のために貯めた資金がほとんどゼロに近くなる中、ギリギリの受験生活でした。試験までの期間、着実に勉強していこうと、朝学校の図書館に行き、今日はこれ以上何をやっても頭に入らないという状況に達するまで勉強することにしました。
 勉強を重ねるうちに、自信が出てきたというよりも、「合格できるかどうかということよりも、今こうして勉強できるということがありがたい」という気持ちになってきました。試験の前日に体調を崩さないか、十分な睡眠が取れるかなど、試験では自分ではコントロールできないことが少なくない。合格できるかどうかは自分にはわからないことであって、そんなことを心配しているよりは、自分が今なすべきことをやろう。
 後は運を天に任さざるをえない。そして、仮に不合格であっても、それは自分にとって意義のある新たなスタートになるはずだと考えるようになってきました。不思議なことに、それからは一気に気持ちが楽になり、今度は普段どおりの自然な気持ちで試験に臨むことができ、幸い試験にも合格することができました。
 信仰は不安を取り除き、人に勇気を与えると言います。自分はまだまだ確固たる信仰があると言えるような域に達しているとは言えませんが、自分の力、さらには人の力を超えたものの存在を意識し、その中で自分としてなすべきことをなした上で、後は自分を委ねることが、勇気を与えてくれるように思います。

箱庭療法に顕れる救済のイメージ

細井 八重子(臨床心理士・沙羅の会カウンセリングハウス代表)
2012年5月7日 於)横浜チャペル

見よ。私が、「これは暴虐だ。」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。
【旧約聖書 ヨブ記 19章7節】(新改訳聖書)

神共にいましてゆく道を守り……荒野をゆくときも あらし吹くときも……
行く手を示して たえずみちびきませ……みつばさのかげに……
『賛美歌405送別・旅行』
今、歌っていただきました賛美歌は私が大学に入学しました頃覚えたもので、今回オルガニストの山本さんに「何か賛美歌を選んでください」と言われてお伝えしたものです。
こうしてふと口ずさむ歌から浮かぶ救済のイメージが私にあるのと同じように、誰も心の奥深いところでは、苦しいときに浮かぶ導き手、あるいは癒しのイメージがあるように思います。
カウンセリングの中で”箱庭療法”というものがあります。こころの中にあるイメージを砂の入った箱庭(57×72×7cm)に表現してみるという方法です。
たとえばある方は花園を置き、また別の方は重い薪を背負ったラクダを置いて「自分自身の苦難」をあらわします。続く次回の面接では磔刑のキリストなどもそっと置かれたりします。
また、別な方の箱庭作品にはパワフルな大きな蛇が置かれ、反対のコーナーには聖母マリアが置かれたりします。その様な配置の後は、大きな蛇が息子を支配する母親、そうして一方でマリアの見守りがあることを暗示したかとも思い、私は作り手の次のお話を待ちます。
このように、こころのなかのイメージ表現を助けるものとして、箱庭棚には基本的には家、植物、動物、乗り物など森羅万象さまざまなものが置かれています。宗教的アイテムとしては前述の磔刑のキリストをはじめとして、聖母マリア、聖フランチェスコ、ギリシャの医療神アスクレピオス、エジプトのイシス・オシリスなどなどが並べられています。
それらのミニチュア像にはそれぞれに宗教的な本来の意味があります。

さて、薪を背負わされる自分自身を苦難として表現した後などに、しばしば語られる言葉が「なぜ私だけがこうした苦難に遭うのでしょう」
です。この方の傍らにいた私にはある連想が働きます。旧約聖書『ヨブ記』です。ヨブはどのようにこの苦難を乗り越えたのでしょうか。
そもそもなぜヨブは苦難を受けなければならなかったかと言うと、サタンの挑発に乗って神が義人ヨブをあらゆる方法で苦しめたからです。
サタンの挑発とは、いくら信仰の厚い義人ヨブでもひどい苦しみに遭ったら、神への信仰を捨てるばかりか、呪うであろうというものでした。
『ヨブ記』は、そうした悲惨な仕打ちが息が苦しくなるほどに物語られていきます。その仕打ちに対してヨブは神に「なぜ? どうして? わたしだけに……?」と何度も問いかけ続けます。
その解釈について思索した方の1人が深層心理学者C.G.ユングです。私もこのユングの著書にふれて、こころに問い続けることこそがヨブの生き様であったのだと思いました。紀元前から、民族は違っても、人はこころの苦しみの向こう側に神様のイメージをもって、語りかけ、問いただし、自分のありようを探し続けてきたと言えるでしょう。このことに私は人間の精神の働きの奥深さを感じて、驚嘆してしまいます。

皆さんも箱庭にこころの中から湧き出るイメージをあらわしてみませんか。おぼろに感じていた何かを作品として作り、カウンセラーと語り合ううちに、いくつかのアイテムがいきいきとした意味をもって光り輝く、そんな体験となるかもしれません。

幸せなら態度に示そうよ!

木村 利人(早稲田大学名誉教授・恵泉女学園大学前学長) ※2012年度時点での学年・肩書きで掲載しています。
2012年12月19日 於)横浜チャペル

そのことを態度で示しなさい。(リビングバイブル)
光の子として歩みなさい。(新共同訳)
【新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章8節】

 はじめに自己紹介をしましょう。私の名前は木村利人です。恵泉女学園大学の学長をしておりましたが、2011年度末に任期満了で退職しました。恵泉では、毎週「現代社会とキリスト教」という講義を担当し、私の専門分野であるバイオエシックス(生命倫理)の視座から「いのちの問題」について学生のみなさん方と一緒に学んできました。
 実は、私はもう一つ「きむらりひと」という平仮名表記で作詞をしていまして、私が学生時代に作った歌があります。皆さん方も多分よくご存じの『幸せなら手をたたこう』という歌の作詞者は私なのです。
 これは、「幸せ」の歌なのですが、「平和」に生きようという聖書のメッセージです。この原曲はスペイン民謡ですが、日本語の詞は、私が早稲田大学の学生時代に参加したフィリピン・ダグパン市におけるYMCA国際ワークキャンプの体験に基づいて作りました。
このフィリピンでのワークキャンプの主な仕事は、周辺農村地域のトイレ穴堀作業でした。これが日本軍に侵略された農村地域復興のための「公衆衛生活動」だったのです。今から53年も前のことでしたが、その当時まだ生々しい悲惨な戦禍の残骸を目のあたりにし、犠牲者の悲しみに触れ、日本の若い世代の参加者一同は大きなショックを受けました。
 しかし、一緒に汗を流し仕事をし、聖書を読み、祈りをしていく中で、フィリピンの友人たちはタガログ語で「タイヨアイマカイビガンカイクリスト」と語ってくれました。
「私たちはキリストにあって、友だちなのだ」と言う意味です。戦争の苦しみや悲しみ、日本への憎しみを越えて、平和な世界を一緒に作ろうと私たちに語ってくれたのです。
 その時読んでいた英文聖書の箇所が旧約聖書の詩編47の「手をたたこう、すべての人々よ! 喜びの声をあげ神に向けて叫ぼう(木村利人訳)」でした。そして、実際にフィリピンの友人たちは「態度に示して」私たちに本当に親切にしてくれたのでした。
 神によって生かされている平和の「幸せ」を「態度に示して」生きていくようにと、私たちは神によって召されていることをフィリピンの友人たちから教えられ、その感謝と感激の体験を帰国途次の船の中でこの民謡曲につけて作詞したのです。
 今、クリスマスを迎えようとしています。イエス・キリストがこの暗い世界に世の光として来られ、私たちを神による本当の命の光りの中に導いて下さるのです。
 聖書は、「光の子として歩みなさい」(エフェソの信徒への手紙5章8節)と語りかけます。この「光の子として歩みなさい」ということの具体的内容として、この同じ聖書の箇所が『リビングバイブル』(いのちのことば社・1975年)では「そのことを態度で示しなさい」と訳されていることに、是非注目して下さい。もしかすると、私の「幸せなら手をたたこう」が1960年代前半に大ヒットしたので、その歌詞のキーワードである「態度に示そうよ」がこのように1975年に刊行された『リビングバイブル』の日本語訳にも影響を与えたのではないかと思っています。
 私たちは神により一つとされ、平和に生きる喜びこそが「幸せ」の根拠であり、それを「態度に示す」というライフスタイルをとるようにと、聖書は私たちに告げているのです。
この世に誕生された光そのものであるイエスキリストを見つめつつ、神の輝きによってのみ輝くことの出来る「光の子」として「態度に示し」合い、神の導きの光を目指して、ともに一回限りの人生を歩んで行こうではありませんか。

使命

秋山 智一郎(管財部長) ※2012年度時点での学年・肩書きで掲載しています。
2012年6月20日 於)白金チャペル

その後、主はほかに七十二人を任命し、ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
【新約聖書 ルカによる福音書 10章1~6節】

 皆さんが、この世に生を受けた意味を考えたことはありますか。日々、何気なく行動し、授業・クラブ活動・アルバイトの生活を送っておりませんか。
 神は、皆さんにそれぞれこの世での役割を与えておられます。今日は、皆さんが「なぜこの場に来ているのか」、そして「何を行っていけばよいのか」、そのためには「何が必要なのか」を私の明治学院で感じていることや私の経験を取り交ぜてお話をします。
 今、皆さんが所属している学科、クラブは偶然ではなく必然的に神から与えられたことなのです。両親や兄弟も然りです。今日、ここに来られていることもそうなのです。皆さんが生を受けてから今日まで、様々な出来事があり喜びや悲しみ、苦難を乗り越えて現在の皆さんがここにおります。過去の出来事を思い出してください。その時の気持ちに自分自身を置くことで、どのように対応したか、どのような気持であったか、それが苦難であるとしたら魂は大きく向上していたはずです。気がつかない内に魂は日々向上し、人として大きくなっているのです。悲しみや苦しみをどれだけ乗り越えたかで魂の向上に差がでます。魂を豊かにすることでコミュニケーション能力も比例して向上すると私は信じております。神は、敢えて試練をお与えになります。試練を乗り越えることで神の大きな愛を受け取ることができるのです。神から与えられた愛を人のために役立てることは、本学の教育理念「Do for Others(他者への貢献)」と通じます。他者への貢献を、普段の生活の中で容易にできている人はどれ位いるのでしょうか。
 意識せずに自然と良いことを行うためには、決して抱いてはいけないものがあります。それは、「EGO」です。日本語では、「自我」と訳されます。自我は、何を行うにしても全てを悪い方向に導いてしまいます。
 私は、人と話をするときや仕事で指示をする時など自我を捨て心に問いかけ物事を考えるようしておりますが、自我が必ず割り込みをし、正しいことができない場面に多く遭遇します。自我を捨て去るためには、魂を向上させることが必要なのです。友人に身勝手な人はいませんか。そのような方は、自我を捨て去ることができず魂を向上させることが必要な人なのです。教育理念「他者への貢献」を常に心に留めることにより自我を捨て去ることができ、良い友人関係を保ち信頼関係が生まれるのです。
 本日の奨励テーマは、「使命」です。辞書の大辞林には「使者として命ぜられた命令・任務」、「与えられた重大な任務。天職。」と書かれております。文字を2つに分けてみると命を使うとも読み取れます。最初にお話ししましたが、皆さんが「この世に神の子として生を受けたこと」それが使命なのです。皆さんは、神からこの世でなすべき重大な任務を背負い生まれていているのです。命を使い重大な任務を遂行するために必要なもの。それは何か分りますか。自我を捨て、「愛と感謝の気持で人と接すること、物事に取り組むこと」なのです。それを行うことが貴方の使命なのです。皆さんは、卒業したら様々な進路に進むことでしょう。その進路も神から与えられた必然性、すなわち使命なのです。
日々、愛と感謝の気持ちを持って行動することで皆さんの使命は達成されるのです。
 最後に、今日皆さんとお会いできたこと、愛に満ち溢れた明治学院と職場で働けることを神と皆様に感謝いたします。100年後もこの素晴らしいキャンパスを維持することが私の使命と考えております。

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