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チャペルの紹介

James Curtis Hepburnの名前を聞いたことがありますか?


明治学院初代総理
J.C.ヘボン(ニューヨーク時代)

へボン式ローマ字で知られているジェームス・カーティス・ヘップバーン博士。以下、日本での通称、へボンと書きます。
1815年ペンシルベニア州ミルトン生まれ。ニューヨークで開業医を行っていたが、東洋伝道の志に燃え、米国長老会の支援を受けて日本が開国した1859年に44歳で来日、92年77歳で帰国するまで、日本の文明開化と国際化に多大な貢献をしました。

【へボン博士の業績について】

1 日本最初の包括的な英和・和英辞書「和英語林集成」編纂

日本の文明開化・近代国家建設に使われ、後の英和・和英辞書の原形となりました。博士はその版権を譲渡した利益を明治学院に寄付しました。初版は歴史資料館で見ることができます。

2 ローマ字日本語表記(ヘボン式ローマ字)の開発

「和英語林集成」の表記のために開発されたローマ字は「ヘボン式ローマ字」として150年後の現代までも日本語の標準的な表記や、キーボードの入力法として広く用いられています。

3 教育制度の近代化と教育を通じた文明開化への貢献

「ヘボン塾」を開設、その後築地大学校、東京一致英和学校、東京一致神学校、英和予備校などへと発展し、明治学院とフェリス女学院へと発展しました。

4 欧米近代医学の紹介と実践

横浜の宗興寺や居留地39番地で無償施療を施し、日本人医学生に西洋医学を教授。生麦事件での治療、岸田吟香(劉生の父)に目薬「精錡水」を伝授、歌舞伎役者澤村田之助(3代目)の外科手術。

5 キリスト教伝道と聖書和訳による日本の近代化への貢献

へボン邸内の礼拝堂(施療所を兼ねる)での主日礼拝は現在の横浜指路教会へと発展。聖書やキリスト教は西欧文明を知る窓口となりました。

6 日本の国際化と近代市民社会の育成

日本人志士を育て、留学生を送り出し、民間の平和外交に貢献。講演などで日本人の知識レベルを引き上げ、「日光金谷ホテル」や地場のラムネ、サイダー、ミルクシェーク製造など、新しいビジネススタイルを広めました。

ジェームス・カーティス・へボン博士は国家の力を一切借りず、私財と教会組織の支援、辞書出版の利益によって事業をまかない、民間援助、民間開発支援を国際平和の為に行いました。

宣教医師として無料医療奉仕をしたヘボン博士

ヘボン博士は、成仏寺に住む頃から医療奉仕を始め、その後近所の宗興寺を借り施療所を開いたが、この施療所はたった5ヶ月間で幕府の命令により閉鎖された。しかし施療所閉鎖後も自宅や往診により医療奉仕は続けていたようである。その頃の書簡によると「毎日患者は絶えません。数日前、神奈川宿で、ある大名の位の高い一人の家来が、コレラらしい病気にかかったので、往診に出かけましたが、私がこの人や、その友人、従者たちと親しくなったことが、ある程度まで、われわれ外国人に対する誤った印象を取り除く役に立ったようです。」(1862年9月1日)とあり、各地から患者が集り、日本人からも慕われていた様子がうかがえます。
1863(文久3)年、新たに居留地39番地で専用の施療所を開くことができたうえ、日本で初となる点眼式目薬を広めました。この好評がきっかけで奉公所も施療を禁じなくなったといいます。また生麦事件の負傷者の手当てや当時の大人気歌舞伎役者・澤村田之助の右足切断手術を成功させ、日本人医学生の養成にも力を注ぎ、その貢献は今日の日本の医療にもつながっています。
時には手紙で母国に医療器具の注文もしており、「外科手術で使う、細い焼きなました鉄の針金を1、2ヤード郵便でお送りいただけませんでしょうか。」「眼病のときにこめかみから血を採る、人口放血器1つ、郵便でお送りください」等、簡単な施療だけでなかったことがうかがえます。

さようなら、ヘボン博士

日本に骨を埋めるつもりで墓地も買っておいたヘボン博士ですが、日本での最後の奉仕として資金集めに尽力した横浜指路教会の大会堂が完成すると、1892(明治25)年、夫妻は33年間の日本での生活に別れを告げアメリカへ帰国しました。ヘボン77歳、クララ74歳。晩年はニュージャージー州イースト・オレンジの自宅で静かな余生を送ったということです。「わたくしどもの年になって、この地の住居を離れ、『ふるさとなき旅人』となって世の中に出て行くのは、ほんとうにつらいことです」(書簡より)。1905(明治38)年のヘボンの90歳の誕生日に、日本政府は「勲三等旭日章」を送り、日本の文化に尽くした功績を讃えました。
それから6年後、1911(明治44)年「9月21日、ヘボン博士逝去」の知らせが明治学院に届きました。日本の新聞各社はヘボン博士逝去を大きく掲載しました。ヘボン博士が日本にどれだけの貢献をしたかがわかります。また、この日の早朝、明治学院のヘボン館が火災に遭い全焼。
偶然の一致にしては不思議な出来事で「ヘボン館は清き献げものとして、天に捧げられたのだ」と、焼け跡で祈りの時が持たれたそうです。

『和英語林集成』日本最初の和英辞典
ヘボン式ローマ字もここから生まれた

1867(慶応3)年『和英語林集成』が出版されました。集められた日本語に品詞と用例をつけ英語で解説した日本語辞典です。ヘボン博士自らが日本での日常生活の生きた言葉を中心に集めました。「コレハ何デスカ」と診察に来る患者や散歩で出会った人、役人などに連発し、身振り手振りで日本語の意味を聞きとったようです。
さらに『和英語林集成』が私たちに残したのは、現代の日本で当たり前に使われている“ヘボン式ローマ字”です。ヘボン博士はリスニングに優れ、日本語の音を忠実に表記する方法としてこのローマ字を作り、数年後に完成させました。“ヘボン式”とはこのヘボン博士の名前なのです。

明治学院の淵源 ヘボン塾のはじまりは・・・

今から150年前の1863(文久3)年、世間は蘭学から英学への転換期。知人の依頼でその養子(林董)のために教師経験のあるクララ夫人が英学塾を開いた。これが後の明治学院、〝ヘボン塾?のはじまり。
このヘボン塾は、日本で初めての男女共学の学校です。外務大臣、逓信大臣を歴任した林董や日銀総裁、総理大臣を務めた高橋是清、三井物産創始者の益田孝らを輩出しました。

ヘボン博士がやってきた154年前の日本 ~1859年 安政6 年 将軍・徳川家茂~

ヘボン博士の見た 日本庶民

男性は三つ揃の背広に革靴、女性は地面に届くほどのドレスが当たり前の西洋人。ちょんまげ姿の日本人を見た印象は驚きだったでしょう。

この時代の日本人の食事

朝昼は白米・味噌汁・漬物。夕食には1品加わる程度の穀菜中心。明治時代になると日本にも洋食が入って来ましたが高嶺の花。庶民の食事にはあまり変化はなかったようです。

ヘボン家の食事(書簡より)

朝食:塩ゆでの鮭、クラッカー、パン(パン粉も含めてすべてカリフォルニア産のもの)、バター、おいしいセイロン茶、砂糖(香港から)、食塩は英国。
昼食:チキンのパイ、ポテト、アップルパイ、ミルクとチーズ、紅茶
日本で入手が難しいものは外国船へ行って購入していたそうです。外国人にとっては決して贅沢な食事ではなく、この頃の西洋と日本との違いがよくわかります。
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